萩の舎

萩の舎と華族女学校

一葉には、一つだけ下田歌子とのエピソードがある。明治19年の春頃、父の樋口則義は一葉に和歌を学ばせようと考えていた。そのとき、則義の友人の一人である脚気治療で著名な遠田澄庵から歌子に学ばせたらどうだと提案された。「歌子」と聞いても則義はそれが誰か思いつかなかったのだろう。則義は友人の国学者の荻野重省に尋ねて、ああ、歌子ね、それは下田歌子に違いない、ということで、下田歌子に入門を問い合わせた。

下田歌子は若き歌人として宮中に入り皇后から強い信頼を得て、その後に宮中を出て不幸な結婚をするが、夫の死後に教育者として華族女学校を成功させた。一葉を下田歌子に習わせようとしたのはちょうど明治18年に華族女学校を開設した翌年。しばらく前までは自宅に門下生を募集していたが多忙のために弟子を取ることはできなくなっていた。下田歌子は一葉の入門を問われたが、そんな事情から、華族女学校へ一葉を入学させるのはどうかと答えた。則義は家計上の問題から一葉の進学をあきらめたので、華族女学校に入学させる余裕はなかった。だが、下田歌子への入門は勘違いだった。遠田澄庵の言っていた歌子がもう一人の歌人・中島歌子だったことが判明し、中島歌子の萩の舎に入門することになった。ちなみに遠田澄庵は医師としても著名だが、漢詩人としても当時は知られていて、彼が推薦したのも中島歌子の和歌を評価していたためだと思われる。

このエピソードを知ってふと考えさせられるのは、華族でもない一葉が本当に華族女学校に入学を勧められたのだろうか、ということだ。しかし下田歌子が言っているのだから、間違いはない。事実、華族女学校は平民でも入学することができた。華族女学校の生徒は華族・士族・平民の三種類に分けられていた。当時、下田歌子を悩ませていたのは華族の子女が勉強熱心ではないことだった。それと比べて、平民の子女は熱心に勉強したので、一葉の話を聞いて、意欲的な生徒は入学させたいとの気持ちもあったのだろう。だが、樋口家には一葉を華族女学校に通わせるだけの見通しはなかった。母の反対で一葉は裁縫を学んでいる最中だった。

一葉が入門した萩の舎だが、和歌を学ぶ私塾としては上流階級の子女や妻などが通っていてかなり華やかなものだった。そのため、華族女学校に通う子女たちもかなりいたというのだ。ではどれくらいの人が萩の舎にも属していたのだろうか。

華族女学校 - nigowiki

上記のwikiサイトで華族女学校に通っていた一葉の知人の情報を掲載してみたが、華族では水野銓子、島尾広子、綾小路八重子、中牟田常子、士族では長齢子がいる。鍋島伊都子もいるが、彼女は自宅で中島歌子から和歌を学ぶのが中心だったのか、一葉との交流はよくわからない。先の5人が華族女学校と萩の舎の両方に所属していた。だが、萩の舎への参加者情報として一葉の日記などに名前を残していない多数の人々が実際にはいるので、他にも萩の舎と華族女学校の両方に通っていた子女がいた可能性がある。

下田歌子と中島歌子の二人は下田が上京してすぐに知り合い、下田は宮中に入ることになり中島が近くから離れることを悲しむ歌を残している。二人の関係がどうして生まれたのかはわかっていない。歌人ネットワークから仲良くなったのだろうが、歌だけが二人の知り合いの痕跡である。

その時に、ふと思いがけない発見もあった。華族女学校の在籍者リストを見ていたら、関悦子の名前があり、士族の娘として華族女学校に通っていた。彼女は後に医師の関場不二彦と結婚し関場悦子、離婚して写真家の江木保男と結婚して江木悦子となる。関悦子は樋口邦子と知り合うのが最初というが、どんな関係で知り合ったのだろうか。駒込に在住で、華族女学校に通っていた。野々宮菊子や吉田実のような裁縫仲間とは異なる。

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