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市村瓚次郎と樋口一葉の兄・泉太郎

『樋口一葉事典』には項目がないが、各所に散見する人物の一人が市村瓚次郎である。市村瓚次郎は東洋史を専門とする歴史学者であり、「満州」の名前の起源を内藤湖南と共に調査したり、邪馬台国が福岡県にあったとする説を提唱するなど、その業績も幅広い。

市村瓚次郎は穴沢清二郎を一葉の許で学ばせるという提案をしたことが有名だ。それがきっかけで、穴沢清二郎の記録が残されることになった。また、彼の名前は山梨県にある一葉女子碑に刻まれている。その彼がどうして樋口一葉とつながりがあったのか。

ちなみにWikipediaには、彼の写真がある。現在の天皇である明仁親王誕生時の読書の儀の写真(下)の一番左側の髭の老人が彼である。儒教にも精通していて孟子に関する著作がある。

一葉の家族との交流は、則義が東京府庁に勤めていた頃の同僚・森昭次との知遇から始まる。市村瓚次郎は森昭次の甥に当たり、樋口家と親交を深めたということだが、実際にどんなつながりだったのかはわからない。ここからは私の推測である。

関連がわかったのは濠西精舎という一葉の一番上の兄が通った私立の漢学の塾からだった。この学校は明治11年に開設されたが、明治21年12月に小永井小舟が死去し、明治25年6月に閉塾となった。前から時折nigowikiの「濠西精舎」のページを更新して、高瀬文淵の結婚相手の兄が通っていたことを発見したりしていた。さらに探していたところ、斯文会が編集した『斯文六十年史』(昭和4年刊)の177頁に濠西精舎の短い項目があることを見つけた。濠西精舎の出身者の著名人として鉄道大臣の小川平吉、文学博士の岡田正之、詩人・松井友右、実業家・浜田儀兵衛、実業家・八木善助などが並んでいるが、3番目に文学博士の市村瓚次郎の名前があった。

濠西精舎を主催した小永井小舟は佐倉藩の出身で旧姓は平野だが幕臣の小永井の養子になり、万延元年遣米使節に随行して渡米経験を持ったことでよく知られている。こながいこぶねはまた、当時漢詩人として著名であり、小永井は漢文書の編者となったこともある。彼は佐倉藩の依田学海とも交流があり、明治初期の演劇の評も行っていた。当時の一流の塾の一つであったことは間違いないようだ。

よくよく調べてみると、樋口泉太郎と市村瓚次郎とは同じ1864年生まれで、二人とも濠西精舎と明治法律学校に通っていた。泉太郎が死去したときの香典帳には瓚次郎の名前が残されているのは、こうしたつながりがあったためのようだ。友達のような関係だったかは不明だが、濠西精舎ではよく知る知人であり、もしかするとどちらかが先に濠西精舎に行き始めて、勧められたということかもしれない。

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