一葉自身

五色のガラスと一葉の葬儀

一葉の家族が龍泉寺町から丸山福山町に転居したのは木村ちよの紹介とする説がある。引手茶屋の伊勢久の木村ちよと知り合い、一葉は彼女を通じて吉原の知見を学んでいたことは確かだ。木村ちよは銘酒屋の裏手にある使っていない離れが引っ越し先としていいんじゃないかと提案してきたと思われる。元々の建物は鰻屋の守喜の離座敷だったが、表通りに面した母屋には銘酒屋の鈴木亭があった。一葉の家には、鈴木亭から三味線や歌が聞こえてくることもあった。

銘酒屋の起源の一つとして語られるのが浅草の矢場。だが、銘酒屋は横浜からハイカラな女郎屋として広がったとの話もある。都心部の銘酒屋はおそらくこの両方の流れを汲んだ形態だったのだろう。

馬場孤蝶が一葉とその時代を語る集まりに、挿絵画家の木村壮八が顔を出した。木村荘八の父・木村荘平は様々な事業を展開する実業家で、一葉が荼毘に付された日暮里の火葬場を運営する東京博善社の社長である。そして当時有名だった牛鍋チェーン店の経営者でもあった。牛鍋店は明治になって西洋文化の流入と共に日本独自の解釈によって作られたものだった。木村は牛鍋店がかなり西洋がかった装飾をされていたことを指摘し、建物にガラス細工が施されていることを思い出している。鰻屋といってもちょっとハイカラな店だったに違いない。

馬場孤蝶は丸山福山町についてもう一つの面白いエピソードを教えてくれている。彼は一葉がそこに暮らすずっと前に、丸山福山町の辺りを散策していて、彼の記憶では、一葉の住んだ場所は、以前に釣り堀だったというのだ。本郷台地からの流水がそのあたりを湿地にしていたのか、釣り堀の池は最初からあったのか、作られたのか、いろいろと想像がわいてくる。

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